恩師のこと-その一

2017年10月13日(金)

こんにちわ代表の大谷です。

 

元住吉の個別指導塾、オールA塾がどんな塾か知っていただくために、私、大谷が、お世話になった恩師の方々の話を書いてみようと思っています。オールA塾が、なにを目指しているか、きっとその中でお伝えできるだろうと思います。

 

私の中学校は自分の家から片道2時間程度の距離があって、知らない土地で、まったくなじめませんでした。

中学校のころ、よくありがちですが、なにも夢中になるものがなくて、自分がなんなのかわからなくて、ふらふらしていました。学校もよく遅刻・欠席しましたし、精神的にも不安定で、まわりにもずいぶんと迷惑をかけたと思います。

高校1、2年生のころまでは、高校を出たら音楽の専門学校に入ろうかと思っていました。

大学に進学して、というのはその頃まで意識していませんでした。

 

3年生になったばかりの頃に、大きな出会いがありました。

それは、T先生という恩師との出会いです。

T先生は、学校内では日陰者で、指導室でゴルフの練習をしているような先生でした。

そのT先生が、たまたま、小論文の授業を担当していて、なんの理由でかは覚えていませんが私もそれを受講していました。まじめな優等生風の女子たちが、難関国公立を目指しているような授業でしたので当時の私が、入り込める空気はありませんでした。

 

あるとき、T先生が、

「おまえ、こないだ授業中に、魯迅を読んでいたろ。なんでだ?あんなもの、若い子は読まないだろ」

とふいに聞いてきました。

私は、「鉄の部屋(魯迅の小説に出てくる当時の中国人が閉じ込められている空間)の部分が、今の自分たちと、同じだと思ったから」「絶望の虚妄なること、正に希望に相同しい、という部分が、心に響いた、」と答えました。

私の、青春時代だった90年代おわりは、もうすぐ新世紀をむかえるということや、当時の経済情勢もあいまって、なんとなく、暗くて終末的な雰囲気がただよっていました。

それにくわえて、なにかをしたくても、できない自分、社会になにかを訴えたくてもそれができない当時の自分、ひとりぼっちで誰にも理解してもらえない自分。そんな自分の状況と、魯迅の小説をつらぬく「暗さ」が、マッチしたのだろうと思います。

 

T先生は、「おまえ、やっぱり、なんかほかのやつと違うな」といい、「思っていることを書いてみろ。」と原稿用紙を10枚ほど渡されました。翌日、私は、原稿用紙を買い足して、20枚ほどで作文をしました。

書いた中身の詳細はもう覚えていませんが、自分の中にあった「やるせなさ」を、切々と言葉にした、と思います。

T先生は、たいして中身も確認せず、「おもしろいやつだなあ、お前は」といい

「好きなだけ書いてみろ。数学だの理科だのはどうせ寝てるだけなんだからもう出るな。ずっと買いていろ。」といい、

今度は200枚程度、原稿用紙をくれました。

翌日、私は、同じように20枚、自分の考えを書き先生に見せました。また先生は中身をたいして確認せず

「やっぱりそうだ。ほんとうは、文章を書くのが好きでたまらないんだ。」

とぼそりと言いました。

 

はすっぱな劣等生で卒業も危ぶまれているような自分が、「書くのが好きでたまらない」?

そのときは、とても不思議でした。

ただ、たしかに、なにをしているときよりも、その先生にむけて文を書いていると、自分が自由になれるような気がしたのをよく覚えています。

言葉にして文を書いているうちに、自分をとらえているなにものかがはっきり見えていく。

どこにも行き場のなかった当時の私にとってそれは、「救い」だったように思います。

 

3年生の夏前、T先生は、

「お前は、たしかに中学校高校の作業のような勉強にはむいていない。もうそれをどうこう言う気はない。けれど、大学の、自分で考えて自分で調べていく研究、それにはきっとむいている。」

「学歴のためでも出世のためでもなく、学問をするために、大学に行ったらどうか。文学部という、そういうところがあるぞ。そういう変人の集まりだ。」「俺は、文学部出身だ。俺の後輩になれ。」

 

T先生の奥さんが、同じく文学部英文学の出身で英語を教えていたので、その週からずっと、英作文を添削してもらい、英語の勉強をはじめました。そして、私は、大学の文学部で、研究の道を志すようになりました。

 

 

私が、オールA塾で、生徒さんたちに作文を教えているのは、彼らのなかに眠っている本人たちも気づいていないような「こだわり」や「かがやき」を、作文を通じて見つけさせてあげたいと思っているからです。

T先生は、決してなにかを書け、といったことはありませんでした。また、うまいだとかへただとかは決して言いはしませんでした。

点数をかせがせるためではなく、私というひとりの人間と、作文という作業を通じて、「対話」をしていたのだろうと思います。そして、それこそが、私にも気づけなかった自分の可能性を引き出すために一番必要な作業だったのだろうと今は思っています。

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