認めること

2018年01月17日(水)

こんばんわ。代表の大谷です。

 

オールA塾でもっともたいせつにしていることは、生徒様であれ保護者様であれ、スタッフの方たちであれ、

その人を「認める」ということです。

 

相手を「認める」ということは、相手より劣っているとか勝っているとか、そういった勝ち負けの意識とは異なります。

また、相手の欠点をすべて受け入れる、自分が我慢する、ということとも違います。

 

その人が、そこにいること。その人が、大事にしているもの。それそのものを「認める」ということ。

そこにいていいんだよ、気持ちがわかるよ、とうなずいてあげること。これが相手を「認める」ということだろうと思っています。

 

口でいうのは簡単なことですが、なかなか実践するのは難しい面もあるかと思います。

相手に欠点があった際に、それを受け入れることは、ときとして嫌悪感や苦痛を伴うこともあるでしょう。

 

たとえば、口元に、よだれをつけている相手を許せない、汚らしいかっこうの人が許せない。音を立てる人が許せない。

いろいろな場面で自分の価値観で相手の行動が許せないことは当然ありえることです。

しかし、それらはその人の言動や態度と一側面でしかありません。

それらをもって、その人そのものを「認めない」ことは、できないだろうと思います。

ですが、さまざまな場面で、われわれは、そうした誰かの欠点が許せないあまり、その人そのものを攻撃したり、その存在自体を「認めない」といってしまうことがあります。

 

よく職場に居場所がない、という言葉を聞きます。

これらは能力だとか、人格だとかいったこと、あるいは立場といったもの、そうした、ものを理由に

ある一定の人だけが、そこにいれるように、同質的で安心な空間にそこをするようにしておきたいという

一部の人の意思が反映された結果だろうと思います。

 

ありていにいってしまえば、それが「いじめ」です。

大人の社会であれ、子どものそれであれそこにあるのは、他者そのものを「認めない」、「認めたくない」という自分本位な考え方です。

そうした考え方をつきつめていった場合、その先にあるのは、他者がまったく存在しない「機械仕掛け」の社会でしょう。

 

相手の欠点によりいやな思いをすることがあったとしても、他者そのものを「認める」こと。

他者が存在するということ、他者が自分と同じ人間だということそのものを「認める」ということ。

今後もそうしたことを心がけていきたいと思っています。

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